2009年06月17日

氷河期を引き起こすのかに関する憶測を

1965年コロラド州ボールダーで開かれた会議で、予測される太陽光の小さな変化が、どのようにして氷河期を引き起こすのかに関する憶測を、ミランコビッチサイクルを支持する証拠が招いてしまった。また1966年にはチェーザレ・エミリアーニ (Cesare Emiliani) は「新しい氷河期が2、3千年以内に始まるだろう」と予測していた。さらに1968年にはポール・R・エールリッヒは自らの著書「人口爆弾 (PopulatioBomb)」の中でこのように書いている「二酸化炭素の量が大変に多くなることによって、現在温室効果が高まっているという。…しかし、その効果は、飛行機雲や塵やその他の汚染物質によって生み出される雲の量が減ることで打ち消される。…そのとき、私たちが大気をごみ廃棄場のように使ってきたことが、全体にどんな気候的結果をもたらすかを私たちは予測できない。
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寒冷化の懸念は1970年代前半がピークとなった。これは、寒冷化の傾向が明確であった点(1945年から寒冷期が始まり、寒冷期の20年は、何十年かの温暖期の後に最低気温に達することを示していた)や、世界の気候や氷河期が起こる原因に関して知識が無かった点が原因である。寒冷化の傾向があったにもかかわらず、気候学者はこの傾向にも続いた予測が不可能であることを完全に承知していたことに気がつくべきであった。なぜなら、この傾向はあまり研究されておらず理解もされていなかったためである(例:[6]を参照)。しかし、一般紙においては、寒冷化の可能性が科学者の報告による注意なしに報道されていた。

地球寒冷化の用語は地球温暖化の語が一般に広まるまでは、氷河期の危機への懸念と結びついたものにはなっていなかった。1970年代に地球半分もしくは全体の気温の記録の統計が始まった。

地球温暖化の発見の歴史では、以下のように述べている。「科学者も大衆も、1970年代には地球が温暖化するか寒冷化するか分かっていなかった。しかし、人々は、地球の気候が変化しつつあり、それが少しの幅ではないということを徐々に信じるようになってきた[7]」。

1972年、エミリアーニは次の様に警告した。「人々の活動は新たな氷河期の発生を早めるか、冠氷の相当な量あるいは全てを溶かす状態になるだろう[8]」。1972年に、氷河期に関するエキスパートの集団の会議において過半数が、「温暖期の終わりは間違いなく近い」と合意した[9]。しかし、この会議における第四紀の研究報告では、「この部会における議論の基本的な結論として、気候の変化のメカニズムを理解するために必要な知識が残念なことに不十分である」と述べている。将来の人間の活動によるインパクトがあっても、致命的な寒冷期が「次の数百年もしくは数世紀必ず訪れる」と考えていた。しかし、他の多数の科学者はこの結論を疑っていた。

2009年05月31日

江戸時代の朝鮮通信使

江戸期の日朝交流は豊臣秀吉による文禄・慶長の役の後、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく、日本側から朝鮮側に通信使の派遣を打診したことにはじまる。

室町時代末期、日朝・日明貿易の実権が大名に移り、力を蓄えさせたと共に、室町幕府の支配の正当性が薄れる結果になった。そうなることを防ぐため、江戸幕府は地理的に有利な西日本の大名に先んじて、朝鮮と国交を結ぶ必要があった。

主として対馬藩が江戸幕府と李氏朝鮮の仲介を行った。これは対馬藩が山がちで耕作に向いておらず、朝鮮との貿易なくては窮乏が必至となるためである。国交回復を確実なものとするために対馬藩は国書の偽造まで行い、朝鮮側使者も偽造を黙認した。後に、対馬藩家老であった柳川調興は国書偽造の事実を幕府に明かしたが、対馬藩主・宗義成は忠告のみでお咎めなし、密告した柳川は津軽へ流罪とされた。詳細は柳川一件を参照のこと。

一方、朝鮮では文禄・慶長の役が終わり、朝鮮を手助けした明が朝鮮半島から撤退すると日本を恐れ、友好関係を何とか結びたいという考えを持っていたようである[2]。

こうした中、対馬藩の努力によって1607年(慶長12年)、江戸時代はじめての通信使が幕府に派遣され6月29日(5月6日)、家康に謁見した。ただし、このときから3回目までの名称は回答兼刷還使とされている。日本に連れ去られた儒家、陶工などの捕虜を朝鮮に連れ帰るのが主目的という意味である。このうち儒家はほとんどが帰国した一方、陶工の多くが日本に留まったとされる。これは当時日本で一国ほどの価値があるとされた茶器や陶器を作り出す陶工を大名が藩の庇護の下、士分を与えるなど手厚い待遇をしていたのに比べ、李氏朝鮮では儒教思想による身分制において陶工は最下層の賤民に位置づけられ、奴隷的な労働を強いられるとともに、失策を犯した場合には体罰を課せられるという過酷な状況にあり、職人に対する根源的な差別があったことが原因である。
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その後、両国が友好関係にあった室町時代の前例に則って、徳川幕府から通信使派遣の要望により国使は回答兼刷還使から通信使となった。

通信使は釜山から海路、対馬に寄港し、それから馬関を経て瀬戸内海を航行し、大坂からは川御座船に乗り換えて淀川を遡航し、淀よりは輿(三使)、馬(上・中官)と徒歩(下官)で行列を連ね、陸路を京都を経て江戸に向かうルートを取ったが、近江国では関ケ原合戦で勝利した後に徳川家康が通った道の通行を認許している。この道は現在でも朝鮮人街道(野洲市より彦根市)とも呼ばれている。吉例の道であり、大名行列の往来は許されなかった街道である。このルート選定については、信使一行に対する敬意を示しているという見方とともに、徳川家の天下統一の軌跡をたどることでその武威を示す意図[4]があったのではないかとする見方もある。

その後、通信使は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際して、朝鮮側から祝賀使節として派遣されるようになった。計12回の通信使が派遣されているが、1811年(文化8年)に通信使が対馬までで差し止められたのを最後に断絶した。幕府からの返礼使は対馬藩が代行したが、主として軍事的な理由において漢城まで上る事を朝鮮側から拒否され、釜山に貿易目的で設立された倭館で返礼の儀式が行われた。唯一の例外は1629年(寛永6年)に漢城に送られた僧を中心とした対馬藩使節であるが、これは後金の度重なる侵入に苦しむ朝鮮側が日本の後ろ盾があるように見せかけたかったためであるとされている。なお、この際にも対馬藩側は李氏朝鮮に対して中国産の木綿を輸出を依頼し、成功している。また、倭館には貿易のために対馬藩士が常駐していた。

通信使について当時の日本人らは「朝鮮が日本に朝貢をしなければ将軍は再び朝鮮半島を侵攻するため、通信使は貢物を持って日本へ来る」などという噂をしており[5]、幕府の公式文書では「来貢使」という用語は一切使われていないにも関わらず、民間では琉球使節と同様に一方的な従属関係を示す「来貢」という言葉が広まっていた[6]。『朝鮮人来聘記』等においても三韓征伐等を持ち出して朝鮮通信使は朝貢使節であると見なしており、当初から日本人が朝鮮通信使を朝貢使節団として捉えていたことがうかがえる。また、朝鮮側も日本側が入貢と見なしていたことは認識していた。延享度の通信使の朝鮮朝廷への帰国報告では、信使の渡来を幕府は諸侯に「朝鮮入貢」として知らせており、それまでの使節もそれを知りながら紛争を恐れて知らぬふりをしていた旨が記されている[7]。

11回の来日のうち、主要な出来事を記すと次のようになる。

2009年04月28日

フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ

フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ(Filippo Tommaso Marinetti; 1876年12月22日 - 1944年12月2日)は、イタリア未来派の詩人、作家、批評家、未来派のオーガナイザー。

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エジプトのアレクサンドリアで生まれる。最初はフランスで活躍する象徴主義の詩人だったが、1908年に出版されたジョルジュ・ソレルの「暴力論」と自動車事故の体験に影響を受け、翌年の1909年にフィガロ紙にフランス語の「未来派宣言」を発表した。1910年の公演で「世界で唯一つの健康法ー戦争よ永遠なれ!」と観衆を挑発して逮捕され、1914年にはオーストリアの国旗を燃やし、再び逮捕される。1918年には「未来主義党宣言」で革命的サンディカリスムを主張する。1919年にムッソリーニが結成した「戦闘ファッシ」に参加し、イタリア社会党機関紙「アヴァンティ!」編集部の襲撃に関わり、投獄される。獄中で「共産主義のかなたへ」(Al di la del comunismo)を書き上げ、同年5月にはベニート・ムッソリーニの路線を保守主義及びブルジョア階級との妥協として非難し、「戦闘ファッシ」を脱退する。1922年には共産主義の文化組織が組織する複数の未来派の展覧会が催されるが、この頃にファシズムに再接近し、1924年にファシスト党に再入党した。60歳でソヴィエト戦線派遣軍にジュゼッペ・テラーニと共に加わり赤軍と戦い、その後、イタリア社会共和国ではアカデミーを主導するが、1944年に死去した。

「テクノロジーを手放しで賞賛し、科学技術は人間性の拡大、伸張をもたらし、人間を超人へと脱皮させると考えていた」。「マリネッティの技術の発達は人間に無限の可能性を開くだけではなく、人間それ自体をより優れたものに変えていく、という考え方は、おそらく現在最も一般的な技術に対する見方、普及したイデオロギーであり、クリシェとなった考え方を先取りしたものだろう」。「戦争を賛美したのは、戦争においてこそ、もっとも盛大にテクノロジーが、その潜在能力の限りを発揮するからだった」。「戦争の非情さが、つまりは『非人間性』こそが、人間を人間であることから脱却させ、新しい人間へ、つまりはテクノロジーと生理的に一体になった超人を作りだすからこそ、マリネッティは戦争を賛美し、賛美するだけでは物足りず、第一次世界大戦に従軍をし、さらには第二次大戦にも前線に赴」いた

2009年04月12日

エンケ彗星

エンケ彗星(えんけすいせい、2P/Encke)は周期3.3年で太陽の回りを公転する彗星である。

現在知られている周期彗星の中で最も短い周期を持つ。ハレー彗星の次に周期性が確認された彗星である。

初めてこの彗星が確認されたのは1786年のことで、メシエ天体のシャルル・メシエの協力者としても有名なピエール・メシャン(Pierre Mechain)によって発見された。

その後、1795年、1805年、1818年にも確認されている。そして1822年にヨハン・フランツ・エンケ(Johann Franz Encke)の軌道計算によりこれらの彗星が同一の周期3.3年の彗星であることが確認された。そこでこの彗星をエンケ彗星と呼ぶようになった。

エンケ彗星は遠日点距離が約4.0天文単位であり、木星の摂動の影響を強く受ける。そのため公転周期は木星の公転周期(11.86年)とほぼ7:2の軌道共鳴関係になっている。

エンケ彗星はおうし座流星群の母彗星と考えられている。過去にエンケ彗星やおうし座流星群の流星体と同じような軌道を持っていたと考えられる小惑星や小流星群の流星体が知られている。これらを総称しておうし座流星群複合体(Taurid complex)と呼んでいる。これらは過去に巨大な一つの彗星が分裂して生じた破片だとする説が唱えられている。

ウリヤ きくすい ルーン はに丸 フィッシン サディ ビアガー ジャック コスプリ ワニス 深海 トリオ パンパン ボート レーター しじゅう オフロード シーン ドラム ナミビア やちょ アカペラ セミプロ レガッタ ロヤジル トルソ フフホト ケモカイン リンリン メシマ ニュー ビュス プロテクト テーブル シャレー コリオン 四季の綱 トメント フォロー オマージュ ゲート パセリ フォーク ナーダム おきな シート しょうわ サック ティペット ジョンツ

2009年03月28日

教育を受ける生徒達の意識

文部科学省の外郭団体である財団法人「一ツ橋文芸教育振興会」と「日本青少年研究所」は、2003年秋に日本・米国・韓国・中国の高校生各千人を対象にアンケート調査を行い、2004年2月にその結果を発表した。この結果にもとづき、読売新聞は、日本では「女は女らしくすべきだ」を肯定した生徒が28.4%であり、他国(米58.0%、中71.6%、韓47.7%)よりも「突出して低い」と報じた。また、「男は男らしく」を肯定した人も43.4%と、4カ国で唯一半数以下であると指摘した[28]

なお、上記の新聞記事が引用し、日本青少年研究所が公開している調査報告書には、単純集計結果と男女別集計結果が記されている。この報告書における男女別集計結果によれば、調査対象者と各項目を肯定した者の男女比は下記の通りである[29]。
読売新聞2月20日朝刊の社説は、「日本青少年研究所」が公開した4カ国対象の意識調査において、「女は女らしくすべきだ」を肯定した日本の生徒が少なかった事などにもとづき、「教育界で流行している『ジェンダーフリー』思想の影響を見て取ることができる。」とし、その社説の最後で「調査結果は、倒錯した論理が広がったときの恐ろしさを示している。」と結論づけた[30]。

ジェンダーフリーの思想的背景 [編集]
日本でジェンダーフリーという政治運動が起こった背景について、推進側は、女性の社会進出(賃金労働者化)が進み、男女観も多様化した中で、従来の男らしさ・女らしさという価値観を不合理に感じたり窮屈に感じる人が増えてきたためとしている。女性の高学歴化が進むに従い「男性並の権利や生活」を求める女性も出てきた。しかし性差や「らしさの壁」に遮られ、男性と同等には扱われないことに気づき、男女の区別を廃止してしまう(ジェンダーフリー)ことに解決の道を見出した、といったものである。

そのため「男女共同参画社会基本法」が作られ、同法が一部のフェミニストたちに「ジェンダーフリーを推進するもの」だと認識されたことが、この運動が広がった要因のひとつだと考えられている。

本来はジェンダーフリーが「社会的性別(日本語の「ジェンダー」)からの離脱の自由」を認める風潮を目指すはずが、「社会的性別(日本語の「ジェンダー」)そのものが悪であり、無くす必要がある」という誤解にいつしか摩り替わった。それがフェミニストが画策した男女共同参画政策に連動した、教育現場でのジェンダーフリー教育で明らかになるにつれて、保守派からの批判がより高まった。内閣府男女共同参画局が言うとおり、ジェンダーそれ自体は良いものでも悪いものでも無いからである。

だが、日本の代表的フェミニストの1人である上野千鶴子が著書『ジェンダー・フリーは止まらない』(松香堂)にも収録された2001年4月15日、NPO法人「フィティ・ネット」設立記念フォーラムでの講演にて、「女は嫁に行くのが一番だ、と私は信じています」という見解を述べることについて、「ドイツではヒットラーを支援するような発言をすると犯罪を構成します。(中略)人種に関しては許されないことが、なぜ女に関しては言ってもいいのでしょうか。それを「思想信条の自由」のもとに許していいのか、と思います。」と聴衆に訴えかけた。このような「ジェンダーフリー」「男女平等」「女性の社会参画」を隠れ蓑にした、「思想の押し付け」が平然と行われていることに対し、保守派は批判し続けている。

ジェンダーフリーの理論的・思想的背景については、ラディカル・フェミニストの江原由美子によれば社会主義のイデオロギーから来ているという[31]。歴史的にみるとジェンダーフリーの発祥はフランスの社会主義者フランソワ・マリー・シャルル・フーリエによって提唱された「ファランステール」という生活集団に見られる[32]。またソ連ではアレクサンドラ・コロンタイが同じような政策(家族廃止、家事労働の共同化等)を打ち出した。しかし、この政策は失敗に終わり、1934年にはソ連政府も根本的見直しをすることになった(ニコラス・S・ティマシェフ「ロシアにおける家族廃止の試み」)。ジェンダーフリーと社会・共産主義の結びつきについては、安藤紀典『マルクス主義の女性解放論』が詳しい。

ただし現在のジェンダーフリー運動は、直接的には第二波フェミニズムを源としているという見方がされている。社会的性別(ジェンダー)から解放されるべきだというジェンダーフリー運動の理論的背景は、社会主義・共産主義から直接繋がっているというよりも、フランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』に代表される実存主義フェミニズムや、マルクス主義を女性運動の理論的根拠に採り入れたフェミニズム理論(ラディカル・フェミニストのシュラミス・ファイアストーンによる「妊娠・出産によって性の階級制度が生み出され、女性への抑圧となる構造は解消されるべきだ」という主張など)が大きく影響しているといえよう。これは、男女を権力関係と見なす傾向や、女性の「性と生殖に関する権利」などが主張される点に良く現れている。

しかし、にも関わらず、日本のジェンダーフリー運動は、アメリカ、ヨーロッパ、共産主義国のフェミニズム運動とは異なる部分も多い。それはジェンダーフリーという語が日本固有であること、さらにジェンダーフリーの賛同者たちが問題にするジェンダーは「日本文化におけるジェンダー」であることに起因していると言えるだろう。
ポップ ルーペ チョーカー シスコ ヤマブキ スカル タイタ イタドリ スター リーザー ケプラー プリンス バトントワラ ビーエス ドリー おおばこ 夢の跡 朧月夜 キック セルフタ 金時 モナーキー シクリカル ショック アウフへ ペンター 旅の夜風 マンド サンチュ ナンバ ショタコ ハンド レイン 都の桜 ハマソウ メッセ ノリウツ しゅひょう ニューメ パンチ ゲーマー ムハンマド ニエオ プレー ビキサン タント ヒッポグ タキシ 秋霖 トラスト

ジェンダーチェック [編集]
「ジェンダーチェック」と題した質問項目を用いて、多様な個人の意識や心の中の思いに関して「これは望ましい」「これは望ましくない」という一定の評価を下し、利用者のランク付けをする活動を行っている。この活動についてはフェミニストの立場から「なぜ多くの女性センターや女性行政担当が『ジェンダーチェック』にとびついたのか」との疑問が提示されている(関連文献参照)。

2009年03月12日

オビエド

オビエド(Oviedo、アストゥリアス語:Uviéu)は、スペイン北部の都市。アストゥリアス州の州都。

約25キロ北の港湾都市であるヒホンに近い工業都市。カンタブリア山脈の北麓に位置している。19世紀以降、近隣で産出される石炭、鉄鉱石を背景に鉱工業が発展した。

8世紀始め、アストゥリアスはイスラム教徒に征服されたが、すぐに伝説的な王ペラーヨよってキリスト教徒に奪回された。761年ごろ、修道院長マクシムスはオビエドに修道院を建てた。8世紀末のアストゥリアス王アルフォンソ2世は西ゴート王国の後継を自負し、オビエドを都としてアーヘンやトレドを模した宮廷・教会組織を作り、司教座を創建し、都を教会や修道院で飾った。

914年、アストゥリアス王国は都をレオンへ遷した。これ以降は、レオン王国と呼ばれ、のちにアストゥリアスはカスティーリャ王国、スペイン王国の一部となった。

近代に入ると、ナポレオンの侵入によって一時荒廃したが、近隣の地下資源を背景に工業都市として発展を遂げた。炭鉱労働者などが多いこともあり、20世紀にはいると労働運動が盛んになった。1934年には、大規模な労働者の蜂起(アストゥリアス革命:es)が起こったが、のちに独裁者となるフランコ指揮の軍に鎮圧された。1936年に勃発したスペイン内戦においては、北部の重要な工業都市であったことから、反乱軍がこの都市の確保を重視し、早期に制圧された。その後、政府側との激しい攻防が展開されたため、再び街は荒廃した。

オビエドはアストゥリアス革命とスペイン内戦で破壊され、古い町並みはあまり残されていない。大聖堂は内戦後に再建されたものである。世界遺産となっているアストゥリアス王国時代の教会は郊外にあり、訪れるにはバスを使う。
いしか ネーブル すたーふる リンホ オペミ 人気ツル タルク ガバナンス 二人のロ フォレ ギロチン トンコツ なか ダンス エベント タクティ タシケント バトンタ ポンプ グルーピー ツァイ ティッ フラット オーソ カルソ ラングド テニス ルチンスク プレーバコ とんだばや ピラカンサ パートタイ コネク ディア ミニチュア ラミア ルクソール ドアロック キンモ ビッグベン のあや フロイト リリー ビッグ ケワキ ハープ レンブ ビーエス ノッチ ロック

サン・サルバドル大聖堂(es) - 元は9世紀にアルフォンソ2世の命で建てられたもので、14世紀からゴシック様式で増築された。
アストゥリアス考古学博物館(es) - 先史時代からアストゥリアス王国時代の遺品を収蔵する。
アストゥリアス美術館(es)

2009年02月24日

腐女子(ふじょし)

腐女子(ふじょし)、もしくは腐女(ふじょ) とは、男性同士の恋愛を扱った小説や漫画を好む趣味を持った女性のこと。「婦女子」(ふじょし)をもじったネットスラングである。

ある女性がホモセクシャルな要素を含まない作品の男性キャラクターを同性愛的視点で捉えてしまう自らの思考や発想を、自嘲的に「腐っているから」と称したことから生まれた。 それに伴い、漫画やアニメなどに登場する架空のキャラクターや実在するアイドルやお笑い芸人などの男性同士が「もしも恋愛していたら」という妄想で楽しむ女性を表す言葉となる。

その後ボーイズラブ (BL)・やおいというジャンルが普及し市場として発展したことにより、BL要素がある漫画・ゲーム・小説・CDなどを愛好する女性も含む呼称となった。

おたく関連のコミュニティでは「女子」を省略した「腐」と略す場合もある(ただしこの場合文脈によっては「腐男子」なども含まれることがあるので注意)。

また、本来男性向けである作品に登場する一部の男性キャラクター(主人公にあたる側)に対して、男性が女性キャラクターに対して抱く所謂萌え感情と同じものを持ちそれを外にアピールする女性についても、一部の男性からは腐女子と呼ばれ忌み嫌われることがある。
ターラン ジープ 指相撲 ギスタン ピアサ ネンタケ リーズ ろくめい レヤイ モルタ つちいろ ダム最適 スモークン シンク ランス スキャッ テヘラ プロケド キックバ バングル シングル ジェルボア ロフト カッサバ ネーズ ロース あわゆ マイド スローキ くわがた ナノマ ミネラル イミテー 桃一郎 ノット マップマット すくね ロール ウォッチ オードュ イズム スタン トレー ドラッスト トラフ ハインド シナサ ジット 邪馬台国 エッフェル


腐女子が主に使用する用語
一部はおたく用語と共通しているが、意味が異なるものもある。

カップリング/カプ/CP
恋愛関係にあるとされる攻めと受けの組み合わせのこと。
二次創作同人の元の作品で、腐女子がカップリングと同等に重要視するもの。
二次創作は原作への愛着の表現でありファン活動の一環であるため、原作の面白さや人気と腐女子萌えの対象としての人気は比例することが多い。従って同好者が多い、同人誌が売れるなどの理由で人気作品につぎつぎと乗り換える腐女子は、作品へのファン意識の欠如と見なされ、一部の腐女子からの侮蔑を受けている。
腐女子人気を得られる原作に多い特徴として、多数の個性豊かな美形キャラが登場し、友情や敵対といった深い人間関係が成り立っている(バトル系やスポーツ系の少年漫画などにこの傾向が強い)。多様な関係の男性キャラがいることで、腐女子の嗜好によって様々な組み合わせや解釈を行うことができる。
とはいえ、少女漫画のヒーローのように線が細い美男子に限らず、顔立ちがある程度整っており、個性と魅力のある男性キャラクターであれば必ず萌える腐女子は存在する。
近年は腐女子がオタク商品の主要購買層となりつつあり、本来腐女子向けでない原作でも意図的に腐女子人気を狙った設定や描写が増えてきているが、「火のない所に煙を立たせる」のが腐女子の大きな特徴であり、このようなお仕着せの萌え設定には反発も多い。
二次創作物で攻めと受けの性格や容姿などが原作とあまりにもかけ離れている場合は批判されることもあり、いかに原作の設定や世界観をうまく使い、面白いやおいに仕立て上げられるかが大事であるとされている。
単一/一棒一穴/一夫一夫
総受け・総攻めや三角関係などがなく、あくまで攻め×受けだけによるカップリングのこと。
鬼畜
主に攻めが受けに対し辛辣な言葉を吐いたり、時に人道的とは言いがたい行為を強制しているもの。
グロ
キャラクター・人物の体が出血・負傷・欠如していたり、骨や臓器が露出しているもの。
スカトロ/スカ
キャラクター・人物の排便または排尿表現があるもの。
18禁/15禁
成人向けの性的表現がある作品を18禁、ある程度の性的表現や残酷な表現がある作品を15禁などと通称する。これらは映画やゲームなどの業界団体が使用するレイティング用語を言葉のみ模倣したもので、もとより明確な判断基準や拘束力があるわけではない。性行為の描写をどこまで重視するかは腐女子によって好みが分かれる。
やおい穴
腐女子が性行為を描く際、女性器の位置に男性の体には存在しないはずの性器挿入用の穴が描かれることがあり、「やおい穴」「腐女子穴」「謎穴」などと称される。これは本来男性同士では不可能な体位である正常位での性交を描写するために用いられる(腐女子自身の知識不足による不可能な体位描写への強引な解釈としても用いられる)。
擬人化
動物、モンスターなどの人外キャラクターを人型にしたもの。
女体化
受け(まれに攻め)となるキャラクター・人物を性転換したもの。ジャンルやキャラクターによって人気が出る場合もある。しかし「女にしたらやおいではなくなる」と敬遠する腐女子も多い。
女装
受け(まれに攻め)となるキャラクター・人物が女装したもの。主な衣服はセーラー服、メイド服、ナース服、ゴスロリ、振袖、最初から着ている服を女性用に改造したものなど。
健全
性的描写が無いものや、アブノーマルカップリング(やおい・百合・近親相姦など)を扱っていない作品のこと。個人の主観によって健全と非健全の定義は異なるため、あくまで参考程度にしかならない。
聖域
特別な思い入れがあり、やおい萌えにより「汚し」たくないジャンルやキャラクター・人物のこと。
ナマモノ/ナマ
芸能人など実在の人物をやおいにすること。「ナマ同人だけは危険だから特別な配慮が必要」などという風説もある。
雑食
同時に多くのカップリングやジャンルを好むこと。一つのジャンルやカップリングを長く愛する腐女子からは「浮気者」と蔑視されたり、「萌えが多くて羨ましい」と羨望されることがある。
よろず
同時に多くのジャンルを扱う同人サイトや同人誌のこと。
萌え
オタクと同じく、多くの腐女子が頻繁に使う。主な対象はキャラクター・人物、攻めと受けの関係性、作品など。
燃え
少年漫画などを好む腐女子が、原作を純粋に楽しい・面白いと思った時などに使う。腐女子の萌えの一番の燃料であり、原作・公式・キャラクターへの愛を構成する重要な要素とされている。
ヤオラー
やおいが好きな者。腐女子、腐男子とほぼ同義。
隠れ腐女子/隠れヤオラー
やおいが好きなことや、同人活動を行なっていることを周囲の人間に秘密にしている者のこと。

腐女子を取り扱った作品
となりの801ちゃん
げんしけん
電脳やおい少女
妄想少女オタク系
腐女子彼女

2009年02月08日

情報 (教科)

教科における情報(じょうほう、英 Information Study あるいは Information Studies)は、2003年度より、日本の後期中等教育の課程(高等学校の課程、中等教育学校の後期課程、特別支援学校の高等部)に新設された情報教育を行うためのものである。
ミング カメリア ハード ナーナ バスロフ バイザー シースルー ピンポン アール キンメイ おもいで モスク バゲージ きらめき ワシン ステージ ドンキ バージョ トンガ スノイズ 春が来た ガスマ オープン チルド シクラメ オーバ ケール バタリアン オカル イシュー トップ スタイ スロバキア ミドルエ ミニマム マキドイ フェイ 王様の楽園 ミラー フーズフー 時の風 リーバイ ゴユリ レイキャ ブラン フリップ ショット ホイール ガーデ アルフ

一般的な意味である「知らせ」を表す情報と混同しやすいため、情報科(じょうほうか)、教科「情報」(きょうか じょうほう)などと呼ぶことも多い。教科「情報」には、普通教育に関する各教科(普通教科)としてのものと、専門教育に関する各教科(専門教科)としてのものの2つがある。

教科「情報」は高度情報化社会に対応した人材を育成するために、情報の収集・分析から発信までを総合的に学ぶ教科であり、単にコンピュータの操作方法を教える教科ではない。むしろ課題によっては、コンピュータを含めいかなる情報手段も利用しないほうが適切に指導が行える場合もある。総合的な学習の時間と同様に、他教科との連携も重要となる、複合的な教科である。

目標
高等学校学習指導要領によれば、教科「情報」の教育目標は次の通りである。

「普通教育に関する各教科」における「情報」の目標
情報及び情報技術を活用するための知識と技能の習得を通して、情報に関する科学的な見方や考え方を養うとともに、社会の中で情報及び情報技術が果たしている役割や影響を理解させ、情報化の進展に主体的に対応できる能力と態度を育てる。

「専門教育に関する各教科」における「情報」の目標
情報の各分野に関する基礎的・基本的な知識と技術を習得させ、現代社会における情報の意義や役割を理解させるとともに、高度情報通信社会の諸課題を主体的、合理的に解決し、社会の発展を図る創造的な能力と実践的な態度を育てる。

内容
普通教育に関する各教科としての「情報」
普通教科「情報」の内容を大きく分けると、「情報活用の実践力」「情報の科学的な理解」「情報社会に参画する態度」の3つの要素がある。これらの要素は、単独で存在するのではなく、相互に関係し合っている。

この教科においては、「理系」「文系」という分類は行われないが、科目によって後述のとおり内容に若干の傾向が見られる。

普通教科の科目「情報A」
科目「情報A」は、科目「情報B」、科目「情報C」について概論的に触れる部分を持ちながら、「情報活用の実践力」を育成することを目的としている。その過程でコンピュータ利用にも触れるが、むしろ中学校を卒業した時点で、基礎的なコンピュータの操作を学んでいることが前提となっており、この科目で改めてコンピュータ操作を教えるというものではない。「普通教育に関する各教科」の「情報」の中では、最も多くの学校で開講されている科目である。

普通教科の科目「情報B」
理系的と捉えられることもある科目である。

情報社会を支える情報技術の役割や影響、コンピュータにおける情報の表し方や仕組みを理解し、問題解決においてコンピュータを効果的に活用するための科学的な考え方や方法の取得を目指すものである。「情報A」「情報C」と比べ、この科目を開講している学校は少ない。

普通教科の科目「情報C」
文系的と捉えられることもある科目である。

情報デジタル化や情報通信ネットワークの特性を理解し、情報やコミュニケーションにおいてコンピュータなどを効果的に活用する能力を養い、情報化の進展が社会に及ぼす影響を理解し、その上で情報社会に参加する上で望ましい態度を育成するものである。普通教科情報の中では、「情報A」に次いで多くの学校で開講されている。

専門教育に関する各教科としての「情報」
専門教育に関する各教科としての「情報」は、科目の内容ごとに「共通分野」「システム分野」「マルチメディア分野」の3つの分野が設けられている。この教科は必履修ではないが、選択科目として他の科目との組み合わせで開講される場合もある。

共通分野
情報産業と社会(情報化と社会、情報科を支える科学技術)
情報と表現(情報活用とメディア、情報活用の基礎、情報発信の基礎)
モデル化とシミュレーション(モデル化とその解法、現象のモデル化とシミュレーション)
課題研究
情報実習

システム分野
アルゴリズム(数値計算の基礎、データの型とデータの構造、整列、探索、データベースの概要)
情報システムの開発(情報システムの概要、情報システムの設計、ソフトウェアテスト、運用保守)
ネットワークシステム(ネットワークの基礎、ネットワークの構築、ネットワークの運用と保守、ネットワークの安全対策)

マルチメディア分野
コンピュータデザイン(造形表現の基礎、コンピュータデザインの基礎、コンピュータデザインの基本要素と構成)
図形と画像の処理(図形の表現、画像のディジタル化、画像の変換と合成)
マルチメディア表現(静止画の設計と表現、動画の設計と表現、音・音楽の設計と表現、作品制作)

教員の免許状
この教科に係わる免許状では、普通教育に関する教科「情報」と専門教育に関する教科「情報」の両方が対象となっている。

高等学校教諭の情報の1種免許状を取得するには、「教科に関する科目」として、次の科目の単位を取得しなければならない。

情報社会及び情報倫理
コンピュータ及び情報処理(実習を含む。)
情報システム(実習を含む。)
情報通信ネットワーク(実習を含む。)
マルチメディア表現及び技術(実習を含む。)
情報と職業
教科「情報」の設置の経緯
中央教育審議会第1次答申
1996年7月、中央教育審議会は「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」と題した答申において、情報社会に対応した教育の必要性を指摘した。「専門高校や総合学科については、情報関連科目の充実を図ること、普通科については、学校や生徒の実態等に応じて情報に関する教科・科目が履修できるように配慮することが必要である」とここでは述べられている。

体系的な情報教育の実施に向けて
答申を踏まえて1997年10月、「情報化の進展に対応した初等中等教育における情報教育の推進などに関する調査研究協力者会議」が第1次報告「体系的な情報教育の実施に向けて」を発表した。この中で情報教育の目標は、次の3つに整理されている。

情報活用の実践力
情報の科学的な理解
情報社会に参画する態度
これらを小学校から高等学校に至るまで体系的に育成するために、高等学校に置いては普通教育に関する教科として「情報」を設置し、その中に複数科目を設定することが提言された。

今後の専門高校における教育の在り方等について
1998年7月23日、理科教育及び産業教育審議会は、「今後の専門高校における教育の在り方等について」という答申の中で「情報分野に興味・関心を持つ若者に、高等学校において情報科学の基礎など情報を扱う上での基礎的・基本的内容を学習する機会を提供するとともに、情報手段を駆使した実習等を通じて創造的で豊かな感性を育む場を用意する」ために専門教科「情報」を新設するべきと述べた。

教育課程審議会答申
1998年7月29日の教育課程審議会は、「幼稚園、小学校、中学校、高等学校、盲学校、聾学校及び養護学校の教育課程の基準の改善について」という答申の中で、「高等学校においては、情報手段の活用を図りながら情報を適切に判断・分析するための知識・技能を習得させ、情報社会に主体的に対応する態度を育てることを内容とする教科『情報』を新設し必修とすることが適当である」と述べられ、専門教科については、「高度情報通信社会における情報関連の人材の養成の必要性に対応するための教科「情報」を新設することが適当である」と述べられた。

教科設置の準備
答申を受け1999年3月29日に文部省(当時)から、高等学校学習指導要領が告示された。当座の教員をまかなうため、数学・理科・家庭・商業・工業・農業・水産の教師を対象に研修が行われ、試験(レポート?)の後に情報の教員免許状が与えられるなど、その後の教科立ち上げの準備も日本戦後教育史上稀にみる速度で行われたといえる。なお、現在は各大学で教員養成が行われているが、文系・理系両方から免許を発行する異例の教科となっている。

またこれと並行に、JPNICでは1998年12月から、教育機関用に新規にedドメインの割り当て作業が行われた。あわせて学校現場の設備更新・教育カリキュラム策定・コンテンツ整備が、政府のe-Japan戦略の元に総務省(旧郵政省)、文部科学省(旧文部省)、経済産業省(旧通商産業省)で急がれた。

教科教育の現状 と 社会からの要請

教員・教科用図書の問題
教科用図書(教科書)の整備も遅れている上、教員自身がよくわかっていなく、間違いを生徒に指摘される場面が、「普通教科に関する各教科」における「情報」で続いている。

免許状の授与を受ける過程
「普通に関する各教科」としての「情報」の教育が不振である原因としては、大学で新規に免許状の授与を受けるため体系的に学習する者や、企業で技術者として専門的な能力を習得した上で免許状の授与を受けることを目指す者は、多数の単位修得のために長期間を要することが必要であるのに対して、高等学校の情報教育を推進する立場である現職の教員(教諭)は、短期間の講義・レポートによって免許状の授与を受けられたことが挙げられる。

この場合、短期間の講習による弊害から、必ずしも授業の土台となる専門的な知識が備わっておらず、浅い指導しかできない状況にある。そのため、学校によってはパーソナルコンピュータを操作する実習(事務用ソフトウェアの操作の習得)が、ほぼ100%に近い状態で行われる場合があるといわれる。これは「情報」の専門分野というより、教職課程において共通の必修科目である「情報機器の操作」の範囲である。

この教科の目的が「パソコン操作の習得」に限定するものではないにも関わらず、教科書に従った授業展開が行われていないと見る向きもある。その影響か一例として、生徒においては教科名が情報ではなく「パソコン」と認識されることもある。

教員の認識
進学指導を優先し「情報教育=就職の基礎」と考える教員において、この教科を「生徒の進路(大学受験)と関係が無い」と軽視する傾向が見られ、社会に適応する教養としての情報教育に真剣に取り組もうとする教員の努力が理解されない懸念がある。かつては現職の教員の一部には例えば「情報」の時間にセンター対策等に「数学A,B」等のコンピュータをしてはどうか、と言う意見があったのは事実である。2006年の高等学校必履修科目未履修問題では世界史に次いで未履修の多かった教科が情報であり、高校側の情報に対する軽視が浮き彫りとなった。

ソフトウェアの問題
しばしば見られる状況としては、特定のソフトウェアに依存した教育しか行われていなかったり、特定のソフトウェアでしか作成できない形式でのファイル提出を強制したりしていることもある。

また、使用するソフトウェアがプロプライエタリなソフトウェアである場合が多く、学校による一企業への支援ではないかという疑問も投げかけられている。生徒自身も「就職したときにデファクトスタンダード(事実上の標準)となっているプロプライエタリ(専用)なソフトウェアを操作できなければ、戦力とみなされずに勉強し直さならなければならない」と考えている場合もあり、この問題の解決は難しい。

また現在意匠法の改正案が提出され、プロプライエタリではないソフトウェアがデファクトスタンダードのソフトウェアのインターフェイスデザインを模倣することが違法となる可能性が出てきており、この先も通常教育においてプロプライエタリなソフトウェアが使用される可能性は高い。企業においては高等学校新規卒業者の雇用にあたり、事務用ソフトウェアの操作が出来ない者より出来る者を優先する動きがあるものの、その簡易な操作方法は、職場の実務に並行して習得することも可能である。このため、事務用ソフトウェアの操作方法よりも、むしろ、情報の取り扱い、情報活用(情報収集・情報処理・情報発信など)の基礎について中等教育段階で習得することを求める動きがある。

指導内容の問題
ハイパーリンクの取り扱いに関して著作権で保護されないハイパーリンクについて、無断リンクを禁止するような内容の記述や指導が行われていることが問題になっている。

その反面、ウェブサイトやブログなどによる情報発信者の低年齢化が著しい昨今において大変重要であると思われる、著作権に関する指導が不足している傾向がある。

免許状をめぐる状況
現場での状況
免許状取得者に対しては、生徒に限定せず学校職員に対する情報教育も期待されている。しかし教科用図書(教科書)の整備が遅れていることもあり、担当科目の指導案のみならず、生徒の学習理解に応じた補助教材を自分たちで作成し、この補助教材が授業の中心になることもある。学校によっては、教科書よりこの補助教材が授業の中心として扱われることもあるとされ、そのような学校では補助教材への対応負荷が高い。また、情報機器・情報ネットワークの保守運営にとどまらず、視聴覚機器の取り扱い担当として割り当てられることもあるなど、教科指導以外の対応も非常に多い。

教員採用試験での制約
教員採用試験においては「情報」だけを所有する者の受験を認めない(出願すら出来ない)自治体(例えば東京都では「情報」と数学または理科の免許が必要)が多く、正規採用を受けていない教員においては「情報」を取得後に他教科の免許を追加、あるいは既に免許取得している教科に「情報」を追加することで当該教科の受験機会を得る動きが見られる。

他教科の免許者についても「複数教科の免許者有利」の傾向があるとされることから、そのような人も「情報」を追加取得することが多い。その結果、「情報」のみ取得(見込)している状態でも受験可能な自治体に、受験者が集中しやすい。「情報」取得者・取得見込者に対する教員採用への機会は、必ずしも均等に与えられていないのが現状である。

高知県にいたっては一度も情報の教員採用試験が実施されていない。

任用の機会
臨時的任用により講師として従事するにしても、現職の教員によって体制が固められ「人員が足りている」学校が多く、この教科だけで従事する機会を得ることが困難となっている。また開講される科目数が少ないこともあり、「情報」のみ免許取得している教員に対する需要は低い。教員として働く機会を得ても、その多くは非常勤講師である。

「情報」の教職課程は、他の教科と併設されることが無く、他教科と並行して取得することは困難である。したがって、大学新規卒業者が教員免許状を有する場合この教科のみとなり、情報教育に高い志を持って免許取得しても、この教科だけで受験可能な自治体の教員採用試験で合格し採用されない限り、常勤教員としての勤務が実現しない可能性が非常に高い。

現職の教諭を対象に免許所有者を確保してきた経緯から、現職以外の新規取得者への門戸は狭い。また、学習指導要領では各科目における指導の注意事項として「技術的に踏み込まない」とされており、情報に関する実務経験者ではなくても対応できるようなルールとなっている。

パーソナルコンピュータの操作が授業の中心になっている現状から「誰でも教えられる」という誤解がある教科だが、授業内容に説得力を持たせ、さらに不測のトラブルなどへの対応のために専門的能力のある者が求められており、他教科の教員に対し情報教育への理解が求められる。

入試科目への導入を巡る状況
出題の状況
情報の内容自体は、私大を中心に複数の大学のAO入試・一般入試などで出題されているが、一般入試科目としては、教科「情報」を学んだ生徒が大学を受験する2006年度の入試で初めて導入された。

2006年度の出題大学は、試行試験を行うなどして04年から準備をしてきた東京農工大学など、国立2大学、私立13大学。2007年度は、出題大学は多少増え、国立2大学、私立21大学。

大学入試センター試験では、1997年から数学の一科目として「情報関係基礎」を出題している。「情報関係基礎」の出題範囲は、大学入試センターによると「職業教育を主とする農業、工業、商業、水産、家庭、看護、情報及び福祉の8教科に設定されている情報に関する基礎的科目」。06年度センター試験 試験問題評価委員会報告書の中の「情報関係基礎」についての問題作成部会の見解として、「『情報関係基礎』という枠組みから『情報』という枠組みへの移行可能性に関しても、慎重に前向きに検討する必要がある」と記されているが、08年度のセンター試験でも、普通教科「情報」は出題されないことが決まっている。

2009年01月23日

レーダー(Radar)

レーダー(Radar)は電磁波を対象物に向けて発信し、その反射波を測定することにより、対象物までの距離や方向を明らかにする装置である。

電波法施行規則第2条では「決定しようとする位置から反射され、又は再発射される無線信号と基準信号との比較を基礎とする無線測位の設備をいう。」と定義されている。遠くにある物との距離を電磁波によって計測し、図示することで、飛行機の位置を把握したり、雨量の計測に使用するシステムに使われている
その単語は定着したアクロニムであり、英語の Radio Detection and Ranging(無線探知測距) からきている。これは、アメリカ人による命名であり、当初イギリスでは無線方向探知機(RDF:Radio Direction Finder(Finding))もしくは高周波方向探知器(HFDF:High Frequency Direction Finder(Finding))と呼ばれていた。

原理
強い電磁波を一方向へ向けて放射し、反射して返ってくる電磁波を受信して放射と受信までの時間差を計測することで、その方向にある何らかの電波反射物までの距離を知ることが出来る。気象用レーダーでは、空中に漂う雨粒や雪片との距離に加えて反射波の強度からそれらの密度を検知することで、その地点での雨量(降水強度)を予測する。

レーダーでは、波長の長い(=周波数が低い)電波を使うと電波の減衰が少なく、遠くまで探知する事ができるが、分解能が低くなるため、目標の解像度は悪くなる。逆に、波長の短い(=周波数が高い)電波は、空気中に含まれる水蒸気や雲・雨などに吸収・反射され易いので減衰が大きく、遠くまで探知する事は出来ないが、高い解像度を得る事ができる。

したがって、対空レーダーや対水上レーダーなど、遠距離の目標をいち早く発見する必要性のあるものでは周波数が低い電波を、射撃管制レーダーなど、目標の形・大きさなどを精密に測定する必要性のあるものでは周波数が高い電波を使用するのが適している。
電波による遠隔物体の感知の歴史は電磁波研究の最初期、つまりハインリッヒ・ヘルツが電磁波の実験を行っている時、周囲に存在する導体との干渉を発見した時にまで遡る。1900年初頭には、ドイツでは航海安全のための電波利用が実際に行われていた。1904年にドイツのクリスチャン・ヒュルスマイヤー(Christian Hülsmeyer)は、火花式送信機とコヒーラー受信機により距離5kmの船舶の探知を実用化し、英国において"Telemobiloscope"の名で特許を取得したが、この技術には需要が無く忘れられてしまった。

黎明期
1930年頃から英米国では、電離層の観測目的で電波の利用が行なわれていた。その後、航空機の通過で観測が妨害される現象を逆に使用して、航空機を発見するためのラジオ・ロケーターと呼ばれるレーダーの開発が始められた。英国はこの電磁波を兵器(殺人光線)に利用できないかロバート・ワトソン=ワットに打診し、殺人光線としては利用できないが、航空機の早期発見には役立てることができるだろうとの見通しを得た。最初に航空機の探知に成功したのは1935年の英国である。

実用化と軍事への応用
1930年代にドイツでは、ヴィルスンとアーブスローが海軍司令官エーリヒ・レーダーの指示のもとで、イギリスでは、ロバート・ワトソン=ワットらにより航空省が援助して開発が進められ実用化され、1940年にイギリスはドイツ空軍の空襲に対する迎撃戦闘で大々的に使用し、ドイツのイギリス侵攻の阻止に大いに役立った。

ドイツ空軍の空襲に対してイギリス空軍はレーダーを使った防空システムの整備により有効に対処することができ、この戦いは戦局の分水嶺となった。また、サボ島沖海戦やビラ・スタンモーア夜戦でもアメリカ海軍がレーダーを活用して日本海軍を相手に勝利をおさめた。こうしてレーダーは戦局を左右する重要な情報機器となった。

プレシン スタン ガッツ ジャー ひのえま トーイ プールバ ジメチル ウイット ブチュ ディス ハピパラ ていてつ コチニー ハトムギ トライク 紅葉雪 スカラ はちのへ ストラ 熱帯雨林 ストーン テンス もみじが NETリブ 恋待月 サーチ 桜坂 チシェリー トートナビ フェノール ツルコ のへじ トレラ ルーセン つるみ デジカルビ ディパー オーナラ すぎごけ デルフ マニフェ デリン ようとう スエヒ レソト スイング リベート ハッピー ミリグラム

ドイツ本土防空戦においては、英軍が夜間爆撃のために、爆撃機にマッピング・レーダーを搭載した。一方でドイツ軍は英軍夜間爆撃機に対して、夜間戦闘機にリヒテンシュタイン・レーダーなどを搭載して対抗した。

八木・宇田アンテナ
1925年(大正14年)日本人の発明した八木・宇田アンテナ(以下八木アンテナ)は、既存の技術に比べると非常に容易に指向性を得ることが出来る実に画期的な技術だった。しかし、日本では全く反響が無く学会から無視された[2]。ところが欧米で大々的な評判を呼び、各国で軍事面での技術開発が急速に進んだ。英国ではバトル・オブ・ブリテンの時点では無指向性アンテナを使用する短波帯の「CHレーダー」により、複数地点より観測して目標位置を特定していたが、直ぐに八木アンテナを使用したVHFレーダーを実用化した[1]。

日本での歩み
日本でのレーダーは1939年に陸軍が連続波で航空機からの反射波の受信に成功している。その後、陸軍ではいくつか電波警戒機という名の装置を銚子や東京湾入り口に備えたが役には立たず、その後も「た号1型」「た号2型」を開発し対空高射砲陣地に備えたがあまり成果は挙がらなかった。このためもあり1942年8月、ドイツの新型「ウルツブルグ・レーダー」の入手を計画し、伊号第三〇潜水艦で輸入を試みたがシンガポールで触雷し沈没した。

一方、海軍技術研究所では、伊藤庸二造兵中佐の下でマイクロ波パルスを利用した「暗中測距儀」の実験を独自に行っていた。1940年秋の大観艦式の際に艦船からの波長10cmの反射波が捕らえられ、レーダー開発の可能性がもたらされた[3]。また、ロンドン駐在の濱崎諒中佐もバトル・オブ・ブリテンにおける英国のレーダー部隊の実戦投入と活躍を報告し、その有効性を主張している。しかし、海軍中央は八木アンテナやレーダーの効果よりも、自ら電波を出して敵に発見される危険性の方を重視したため、開発には消極的であった。第二次世界大戦の最初期では、まだレーダーはそれほどの性能を持たなかったため、戦局は日本が優位に進めた。しかし、時代が進みレーダーの性能が加速度的に進化した結果、日本軍は多くの戦いでアメリカ軍に苦汁を飲まされる事となる。 レーダーの重要性を痛感した日本海軍は慌てて開発に力を入れたが、時既に遅かった[2]。1942年に戦艦「日向」において実験を行なったがあまり良い結果が得られずそのままミッドウェー海戦に出た。日本海軍ではその後も開発を続け、1941年に戦艦「大和」級に水上索敵と射撃管制用の「2号2型電探」を備えてはじめて実戦に使用可能なレベルのレーダーを手にした[4]。初期のレーダーは雨が降ると反射されほとんど役に立たなかったうえ、指向性も不十分だった。

戦局の悪化で本土防空戦が始まり、高性能なレーダーが必要とされたが、当時の日本軍のレーダーは「電波警戒機甲型」という名称のドップラー・レーダーで探知性能は極めて低かった。そこで「乙型」が開発されたが、性能は有効射程300キロ、方向は大まかにしか特定できず、高度測定は不可能であった。更に工業力の低さから真空管が頻繁に故障を起こした。乙型は40年のバトル・オブ・ブリテンで活躍した程度のレーダー性能は持っていたが、生産に入ったのは終戦直前で、殆ど活躍の場はなかった。

日本語では、電波の照射の跳ね返りにより位置を探るものを「電波探信儀」、相手の発する電波によって方向探知するものを「電波探知機(もしくは受信機)」と呼び、双方共に短く「電探」と呼んでいた。(後者においては「逆探」と呼んでもいた。)なお、これは日本海軍での呼び方とされており、日本陸軍では特に前者を「電波警戒機」と呼称した。

なお、八木アンテナはその後、主に家庭のテレビアンテナ等として広く使用されるが、21世紀の現在でも当初の頃からほとんど変わっていない。それだけ完成度の高い技術だったことになる。

2009年01月16日

源 頼朝(みなもと の よりとも)


アールグ モントリ 健やか バリン 九重 スクレイピ ゲゼルシ マスター スキップ プール パッセ ジュエリー 螢火 スマイリー スイカズラ うごう ジャズマ クロッカス ほうてき あまつき ナチュラル シリコン シフト トート フコイ クリアム いたやなぎ テタニー シリンジ ゼロベ チェック ワット ハリス ザッテル レート ブッダガ プラザ ちょう ハーモ せみね チャット オカルテ タンパー ヒューストン ナルシ ドリアン トップ ストーリ イズド ジェンヌ
源 頼朝(みなもと の よりとも)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。

平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、関東を平定し鎌倉を本拠とする。弟たちを代官として源義仲と平氏を滅ぼし、戦功のあった末弟・源義経を追放し、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦では奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。

これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれた。この政権は後に鎌倉幕府と呼ばれ、幕府などによる武家政権は王政復古の大号令まで足掛け約680年間に渡り、存続することとなる。

文中の月日は全て旧暦
改元の有った年は改元後の元号を記す
内容の典拠については年表

久安3年(1147年)4月8日、源義朝の三男として生まれる。幼名は鬼武者。母は熱田神宮大宮司藤原季範の娘の由良御前であり、出生地は京もしくは尾張と考えられている[1]。

父・義朝は清和天皇を祖とし、河内国を本拠地とした源頼信、源頼義、源義家らが東国に勢力を築いた河内源氏の棟梁である。義朝は保元元年(1156年)の保元の乱で、平清盛と共に後白河天皇に従って勝利しており、頼朝はその御曹司として官職を歴任し、保元3年(1158年)には後白河天皇准母として皇后宮となった統子内親王に仕え皇后宮権少進、平治元年(1159年)に統子内親王が院号宣下を受け、女院上西門院となると上西門院蔵人に補された。また、同年(1159年)1月には右近衛将監、6月には二条天皇の蔵人に補任されている。

治の乱

元の乱の後、二条天皇親政派と後白河院政派の争い、急速に勢力を伸ばした信西への反感などがあり、都の政局は流動的であった。頼朝の父・義朝は平治元年(1159年)12月9日、後白河上皇の近臣である藤原信頼に誘われ、平治の乱を起こした。当初は信西を追討した官軍という立場に立ちその恩賞の除目で、13歳の頼朝は右兵衛権佐へ任ぜられる。しかし天皇は内裏から六波羅の平清盛邸へと逃れ、27日、官軍となった平家が大内裏へと攻め寄せる。頼朝は奮戦する長兄・源義平らに続いて戦うが、義朝軍は平家に敗れ、一門は官職を止められ京を落ちた。

義朝に従う頼朝ら8騎は、本拠の東国を目指すが頼朝は途中一行とはぐれ後に平頼盛の家人平宗清に捕らえられる。なお頼朝がはぐれて後、父義朝は尾張国にて長田忠致に謀殺され、長兄義平は都に潜伏していたところ捕らえられて処刑され、次兄朝長は逃亡中の負傷が元で命を落としている[2]。永暦元年(1160年)2月9日、京・六波羅へ送られた頼朝[3]の処罰は死刑が当然視されていたが、清盛の継母・池禅尼は、早世した我が子・平家盛に頼朝が似ている事から清盛に助命を請うたことなども影響し[4]、死一等を減ぜられて頼朝は3月11日に伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)[5]へと流された。なお、同日平治の乱に関った藤原経宗、藤原惟方や同母弟希義も流刑に処されている