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江戸時代の朝鮮通信使

江戸期の日朝交流は豊臣秀吉による文禄・慶長の役の後、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく、日本側から朝鮮側に通信使の派遣を打診したことにはじまる。

室町時代末期、日朝・日明貿易の実権が大名に移り、力を蓄えさせたと共に、室町幕府の支配の正当性が薄れる結果になった。そうなることを防ぐため、江戸幕府は地理的に有利な西日本の大名に先んじて、朝鮮と国交を結ぶ必要があった。

主として対馬藩が江戸幕府と李氏朝鮮の仲介を行った。これは対馬藩が山がちで耕作に向いておらず、朝鮮との貿易なくては窮乏が必至となるためである。国交回復を確実なものとするために対馬藩は国書の偽造まで行い、朝鮮側使者も偽造を黙認した。後に、対馬藩家老であった柳川調興は国書偽造の事実を幕府に明かしたが、対馬藩主・宗義成は忠告のみでお咎めなし、密告した柳川は津軽へ流罪とされた。詳細は柳川一件を参照のこと。

一方、朝鮮では文禄・慶長の役が終わり、朝鮮を手助けした明が朝鮮半島から撤退すると日本を恐れ、友好関係を何とか結びたいという考えを持っていたようである[2]。

こうした中、対馬藩の努力によって1607年(慶長12年)、江戸時代はじめての通信使が幕府に派遣され6月29日(5月6日)、家康に謁見した。ただし、このときから3回目までの名称は回答兼刷還使とされている。日本に連れ去られた儒家、陶工などの捕虜を朝鮮に連れ帰るのが主目的という意味である。このうち儒家はほとんどが帰国した一方、陶工の多くが日本に留まったとされる。これは当時日本で一国ほどの価値があるとされた茶器や陶器を作り出す陶工を大名が藩の庇護の下、士分を与えるなど手厚い待遇をしていたのに比べ、李氏朝鮮では儒教思想による身分制において陶工は最下層の賤民に位置づけられ、奴隷的な労働を強いられるとともに、失策を犯した場合には体罰を課せられるという過酷な状況にあり、職人に対する根源的な差別があったことが原因である。
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その後、両国が友好関係にあった室町時代の前例に則って、徳川幕府から通信使派遣の要望により国使は回答兼刷還使から通信使となった。

通信使は釜山から海路、対馬に寄港し、それから馬関を経て瀬戸内海を航行し、大坂からは川御座船に乗り換えて淀川を遡航し、淀よりは輿(三使)、馬(上・中官)と徒歩(下官)で行列を連ね、陸路を京都を経て江戸に向かうルートを取ったが、近江国では関ケ原合戦で勝利した後に徳川家康が通った道の通行を認許している。この道は現在でも朝鮮人街道(野洲市より彦根市)とも呼ばれている。吉例の道であり、大名行列の往来は許されなかった街道である。このルート選定については、信使一行に対する敬意を示しているという見方とともに、徳川家の天下統一の軌跡をたどることでその武威を示す意図[4]があったのではないかとする見方もある。

その後、通信使は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際して、朝鮮側から祝賀使節として派遣されるようになった。計12回の通信使が派遣されているが、1811年(文化8年)に通信使が対馬までで差し止められたのを最後に断絶した。幕府からの返礼使は対馬藩が代行したが、主として軍事的な理由において漢城まで上る事を朝鮮側から拒否され、釜山に貿易目的で設立された倭館で返礼の儀式が行われた。唯一の例外は1629年(寛永6年)に漢城に送られた僧を中心とした対馬藩使節であるが、これは後金の度重なる侵入に苦しむ朝鮮側が日本の後ろ盾があるように見せかけたかったためであるとされている。なお、この際にも対馬藩側は李氏朝鮮に対して中国産の木綿を輸出を依頼し、成功している。また、倭館には貿易のために対馬藩士が常駐していた。

通信使について当時の日本人らは「朝鮮が日本に朝貢をしなければ将軍は再び朝鮮半島を侵攻するため、通信使は貢物を持って日本へ来る」などという噂をしており[5]、幕府の公式文書では「来貢使」という用語は一切使われていないにも関わらず、民間では琉球使節と同様に一方的な従属関係を示す「来貢」という言葉が広まっていた[6]。『朝鮮人来聘記』等においても三韓征伐等を持ち出して朝鮮通信使は朝貢使節であると見なしており、当初から日本人が朝鮮通信使を朝貢使節団として捉えていたことがうかがえる。また、朝鮮側も日本側が入貢と見なしていたことは認識していた。延享度の通信使の朝鮮朝廷への帰国報告では、信使の渡来を幕府は諸侯に「朝鮮入貢」として知らせており、それまでの使節もそれを知りながら紛争を恐れて知らぬふりをしていた旨が記されている[7]。

11回の来日のうち、主要な出来事を記すと次のようになる。

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2009年05月31日 11:48に投稿されたエントリーのページです。

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